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2012 LTI 韓國文學飜譯院 東京 フォーラム 資料集

Contents

作家紹介

金重赫(キム ジュンヒョク)

 

1. 作品世界

 

 金重赫はコレクターであり発明家だ。韓国の米原万里と呼ぶこともできよう。金重赫の小説には、削って使う万年筆、アンテナの中にラジオを埋め込んだ「アンテナラジオ」、イヤホンを挿す場所によって国籍の異なる音楽が流れてくる地球儀の形をしたMP3プレイヤーといった、もの珍しいモノがあちこちに隠れている。こうしたモノたちに固有の名前をつけながら、彼の小説はささやかな事物に生命の息吹を吹き込む。

 金重赫は物事の裏面を見つけだし、異なる音域の音を感知する能力に長けた小説家だ。金重赫は世界の中心ではなく、世界と世界の「狭間」に高い関心を持つ。その中で意思疎通の糸口を探してゆく。金重赫は2000年に登壇してから現在まで、驚くべき生産量を誇っている。それのみならず、韓国文学の将来を背負っていく小説家を選ぶ席では必ずといっていいほど名前の挙がる作家でもある。

 初の短編集(『ペンギンニュース』)が物についての小説ならば、二冊目の短編集(『楽器たちの図書館』)は音にまつわる小説だ。そして三冊目の短編集(『1F/B1』)は空間についての小説だと言える。一冊目が物にフォーカスを当てたとするなら、二冊目は共鳴する音について語ったものであり、三冊目は空間とそこで生きる人々の人生から出発する。三冊に共通しているテーマがあるとすれば、それは老いていったり、消滅してゆく生への愛情のこもったまなざしである。それは、物事から人へ、あるいは感覚から世界へと視線が広がっていったといえよう。

 金重赫の小説論を圧縮するならば、表題作「ペンギンニュース」に見て取れるように、物神化した社会における文学の位置についての省察と問いかけと言える。金重赫の小説を系列化するとしたら、中心軸のうちの一つにアナログ的な感性とつながりのある人間的な空間の次元をいれることができるだろう。アナログ的な感性の大切さに気付かせてくれる小説は、まるでデジタル化された機械と文明の時代に「文学」がもつ意味を新たに問い返しているようにも思える。それでありながら、世俗都市で喜怒哀楽を我慢しながら生きる市井の人々の感覚を見下したりはしない。日常の瞬間を埋めるささやかなきっかけを繊細に扱う作家の鋭い触覚が、この小説家の情熱を代弁する。そうした情熱は尽きることがない。姿を変えてゆくだけなのだ。例えば、問いかけという形で。金重赫の書く小説の一篇、一篇がひとつの問いを構成する。金重赫の小説は問う。見知らぬ地に旅に出た少年は「誤差」は誤りと違わないのではないかと(「エスキモー、ここが終わりだ」)。頼りにならない父親を助けようとした少年は、事件は幾多の瞬間から成り立っているのだから、始まりと終わりが区別できないようにつながっているのかもしれないと(『ミスター・モノレール』)。死を目前にした少年の言葉も同じ脈絡から理解できる。「答えはもう全部分かってるんだから、僕に必要なのは質問なんです」(「三つの食卓、三本の煙草」)。

 金重赫の小説のもうひとつの軸には、消滅と喪失が呼び覚ます情緒が根付いている。金重赫が描いているように、別れの後の悲しみの時間が化け物のように大きくなるとしたら(「バジル」)、いなくなってしまった誰かを忘れられないでいる心が不滅の存在を呼び寄せるともいえる(『ゾンビたち』)。この冷たい都市は、喪失感に悲しむ人々の事情に無関心だ。悲しむのはほかでもない個人の責任であり、失敗は個人的な無能力さの産物である。誰もが昔から抱えている悲しみ、あるいは記憶をはつらつとした想像力でもって呼び起こした小説が『ゾンビたち』だ。死んだわけでも生きているわけでもないゾンビたちのように、消えることのない記憶の墓は癒されることのない、いや、癒されることのできない傷を隠喩する。その傷は自分が胸に抱いて生きていくしかない他人の痕跡であり、隙間である。他人の人生が作り出した痕跡はかつては美しかったが、今では消え去った記憶だ。ところが、逆説的にも、他人が残した痕跡は永遠に消し去れないという点が、いま-ここで目に見える現実以上の何かを想像させる。すべてのものが跡形もなく壊される(「クラシャ」)廃墟の上に立って、私たちが生のまたもう一つの局面を想像できる理由は、まさにここにある。

消え去ったものと向き合う人物の表情に影があるのでもなく、絶望しているのでもないのもまた、金重赫の小説だけがもつ特徴であり長所だ。金重赫の作品を率いる力は、とぼけた感じの温かいユーモアだ。ユーモアは状況を劇画化する装置ではなく、作家が世界を見つめる姿勢である。ユーモアは世界の圧力に抵抗しようとする自尊心の表現でもある。そう考えてみると、マニア的な嗜好と自分ならではの世界を固守する金重赫の人物たちは、世界を受け入れたり飼い慣らすのではなく、(失敗を甘受しながら)世界と関わり、なつこうとする者たちだということを強調しておかなければならない。

金重赫が提示する地図に沿って行くと、今自分たちの住んでいる場所が見慣れない場所に思えてくる。居心地の悪い、違和感のある風景を鑑賞しているような気分になるということではなく、あふれんばかりの陽気な感性が回復していくのを理性でもって感じられるようになるという意味である。「無用の物博物館」(『ペンギンニュース』)で強調されたアナログ的なモノが温かい「コレクター」の美徳を描いていたように、「リミックス小説」(『楽器たちの図書館』)で「拍子っぱずれ」のハーモニーが、心が通じ合うことの可能性を見せてくれたように。

最近刊行された『1F/B1』では、そうした想像力が一つの都市として具現化されている。金重赫と一緒に都市の路地を歩きながら、読者は都市の裏面を目の当たりにする。金重赫の説明によれば、一度も踏み切りを渡らなくてもこの都市を一周できる動線がある。動線のあちこちに小さな暗号が刻まれている。金重赫が教えてくれた隠れた絵である。作家が教えてくれた地図を頼りに歩いてみると、都市の抱く新しい空間や人々に出会える。金重赫流のマッピング(mapping)作業といってもいいだろう。それこそが、金重赫が私たちに伝えてくれたこの世界の秘密なのだ。

 

2. 作家紹介

 

 金重赫は1971年に慶尚北道金泉で生まれた。彼はインターネット書店の書評専門ライター、芸術専門書店のDVD担当、ポップカルチャー雑誌の音楽コラムニスト、レストラン専門誌の記者、映画エッセイストなど、さまざまな経歴の持ち主だ。文学はもちろん、映画、音楽、料理など、関心分野も多岐にわたり、周囲の人々は彼を「小説家」より「雑学家」と呼びもする。イラストや漫画にも関心があり、自ら短編集の挿絵を描くなど、フリーランサーの漫画家(cartoonist)としても活動している。また、文学を専門とするラジオのDJであり音楽プロデューサー、ショーケースのMCなども務める。そういった背景もあってか、彼の初の短編集『ペンギンニュース』の「作家のことば」では、自らを無数の破片からなる「レゴブロック」だと紹介している。自分を構成するブロックとして、ドストエフスキー、レイモンド・カーヴァー、村上龍といった小説家、ザ・ビートルズ、ベルベット・アンダーグラウンドのようなミュージシャン、ティム・バートン、アルフレッド・ヒッチコックといった映画監督など、さまざまな分野の人物を挙げている。

金重赫はまた、筋金入りのコレクターとしても有名である。CD、LP、DVD、各種電子製品、フィギュアなどはもちろんのこと、古びて何の役にもたたなそうなモノから使い道のわからないもの珍しいモノに至るまで、さまざまなモノを集めているという。そのためか、彼の小説には実際に存在する奇妙なモノから、実際には存在しない奇抜な想像力の産物まで、実にさまざまなモノが登場する。

 金重赫はさまざまな職業に関心を寄せる作家でもある。地下にこもって何の役にも立たない「概念」ばかりを発明する「概念発明家」、自殺した友人が残していった地図一つをたよりに「バナナ株式会社」を探してさまよう男、エスキモーの木の地図を持って人生の航路を探す地図測量員が登場するだけでなく、建物管理者たちがつくった「連合」についても説明する。世俗都市で注目されることのない職業についた彼らの胸の内にしまった思いがあふれ出すのだ。まるで騒音のように。その音を聞くことのできる者。そういう意味では、作家金重赫は耳のいい人間とも言える。金重赫は、ささやかなもの、風変わりな人、目に見えない音楽を文学の素材にしながら、デジタル時代にさらに大切となった、温もりのあるアナログ的な感性を呼び覚ます作家として位置づけられている。

 2008年に短編「拍子っぱずれのD」で第二回金裕貞文学賞を受賞し、2012年には「ヨーヨー」で13回李孝石文学賞を受賞。短編集に『ペンギンニュース』(2006)と『楽器たちの図書館』(2008)、『 1F/B1』、長編に『ゾンビたち』(2010)、『ミスターモノレール』(2011)がある。

 

 

3. 作品紹介

 

■ 『ペンギンニュース』

 

 『ペンギンニュース』は全部で八編の小説からなる金重赫の初の短編集である。この短編集には、ラジオ、地図、タイプライター、自転車といった日常にありふれた素材が登場するが、これらは現代の日常にあるような、ただありふれただけのモノではない。「無用の物博物館」には、縮小志向型デザインを目指す「レスモール(lessmall)」というデザイン会社を経営する「僕」が登場する。「僕」はインターネットラジオ放送局のプロデューサーである「メイビー」からの依頼で、アンテナにラジオが内蔵されたものをデザインし、大ヒットを収める。ところが「僕」は「メイビー」が担当している視覚障害者のためのラジオ放送を聴いているうちに、真のデザインの意味について新たに気づかされる。

 「エスキモー、ここが終わりだ」には、現代科学と数学的計算を総動員したいまどきの地図とは全く異なる形態の「木の地図」が登場する。エスキモーたちの想像力と記憶によって作れらた「木の地図」は、現代の文明人たちが少しでも誤差をなくそうと努力していることがいかにつまらないことなのかを教えてくれる。「化石怪物」に登場する壊れたタイプライターや、バナナ株式会社に登場するサドルとペダルのない自転車も、「実用性」と「機能性」ばかりを追及するデジタル時代の現代人の習慣からはかけ離れたモノたちだ。また、「間抜けなユビキタス」では、デジタル時代の技術のむなしさについてダイレクトに暴露している。

 

■ 『楽器たちの図書館』

 金重赫の二冊目の短編集『楽器たちの図書館』には「音」というキーワードを共有する小説が集まっている。表題作の「楽器たちの図書館」では、金重赫ならではの独特な想像力が光る。この小説には、あらゆる楽器の音を録音したカセットテープを所蔵する楽器店がその楽器の音を独自の方法で分類し、まるで図書館で本を貸し借りするように楽器の音を借し出してくれるという設定が登場する。

 金裕貞文学賞受賞作でもある短編「拍子っぱずれのD」では、高校時代の合唱部の練習でどうしても拍子のとれない人物が登場する。友人たちは彼を仲間はずれにし、先生は彼に口をパクパクさせるだけにしろというほどだった。そんなひどい音痴だった彼が、22人の音痴たちの歌声を絶妙にリミックスして美しいハーモニーを創り出す。

「ビニール狂時代」には、デジタル音源時代に、昔のビニール包装されていたLPレコードの音を求めてさまようDJを夢見る人物が登場する。「自動ピアノ」にはピアニストの「僕」と「ビト・ジェネベージェ」という映画音楽家の間に起こる不思議な心の交流を描く。「マニアルジェネレーション」にはイヤホンを挿した場所によって国籍の違う音楽が流れてくる地球儀の形をしたMP3プレイヤーが登場する。「僕とB」は、CD売り場で働く「僕」と、CDをこっそり盗んでいったお客だったが有名なギターリストになったBについての物語だ。「無方向バス」は既存の小説の一部を引用したものを活用して「リミックス(Remix) 小説」という独特な試みに挑戦した作品である。

 短編集『楽器たちの図書館』に収録された作品について作家は、「音の聞こえる小説を書きたかった」と語る。実際ここに収録された小説を読む読者は、まるでさまざまな音楽が録音された「音楽CD」を聴いているような感覚を覚えるかもしれない。

 

■ 長編 『ゾンビたち』

 

金重赫の初の長編小説『ゾンビたち』(創作と批評、2010)に出没するゾンビたちは、忘却の彼方で生きる存在だ。アンテナ鑑識院で働く主人公チェ・ジフンがひょんなことから訪れることになったコリオ村は、外部と完全に断絶した検索圏外地域だ。彼は、受信感度が0という無通信地域のこのエリアの秘密を知ることになる。そこには人間ではないゾンビたちが暮らしていたのだ。ゾンビたちは「人間たちの世界ではマイナス」(164頁)だが、どこかで死なずに生きている存在だ。生前に犯罪を犯した凶悪犯たちの死体を、遺族の同意を得て変形させゾンビに作り上げたものだった。死んだ身内の遺体が社会の役に立つ実験のために使われるのならと、遺族たちは遺体を譲ってくれた。遺族たちは死んだはずの家族にまた会えるという希望と、死んでからでもいいから社会に恩返しをしてほしいという願いを胸にこのプロジェクトに参加した。しかし、遺族のそうした願いとは異なり、軍隊はゾンビを軍事訓練のための代用品として利用していた。

ゾンビたちは完全に断絶された空間で生きているという点では、すでに死んだ者たちである。現世とのつながりは途絶えているためだ。一方、こうして忘却という名の罰を受けながらも、今も変わらずうごめいているという点ではまだ完全に死んではいない者たちである。永遠なる静寂の世界であるあの世に完全に入り込んだわけではないからだ。彼らは不死の存在でありながら、一方では既死の存在でもある。彼らは墓碑に書かれた名前で召還されたが、実はまだ死なずに生き残っていた。召喚状の名前は、その名前の持ち主の存在形式を規定する。墓碑銘に記録された名前の主人は死者でなければならず、催告状に記録された名前の主人は借金に苦しまなければならない。しかし、ゾンビたちはその名前にふさわしい人生を営んではいなかった。となると、ゾンビたちは名分と生き様が合致していない、つまり、理想と現実の落差を経験している大勢の普通の人たちともいえるのではないだろうか。

軍隊の陰謀を暴いていくうちに、ジフンの仲間であるトゥンボ130が、ゾンビたちにとりつかれてゾンビになってしまう。ジフンはゾンビたちを引き連れて村を脱出するための作戦を練る。ゾンビたちが音に敏感だという点に着目し、ストーンフラワーのロックミュージックでゾンビたちを誘い出すことにしたのだ。ストーンフラワーのアルバムは、ジフンの亡くなった兄の遺品を整理しているときに見つけたものだ。彼はこのロックグループの他のアルバムを探しているうちにトゥンボ130に出会い、このグループのリーダーが書いた自叙伝の翻訳者であるホン・ヘジョンに会うためにこの村にやってきた。つまり、ジフンがこの死の村に足を踏み入れたのは亡き兄に導かれたものともいえる。となると、ジフンの名前もやはり召喚状(あるいは墓碑)に記録されていたのであろう。ところが、ジフンはこの召還を逆に現世に呼び出すのに使おうとする。ロックミュージックに沸き返る数百人のゾンビたちは、私たちがナイトクラブなどでよく見かける大勢の人々とそう違わない。兄の遺品は生きていたことの強烈な証であり、それを通じて彼らはこの世に帰ってきたことになる。

 他人のつぶやきは私たちにとっては騒音に過ぎない。それは、世俗世界が容認する数値では鑑別できないほどの感度だからだ。しかし、見分けがつかないからといって存在しないのではない。兄の死でつながった見慣れない音域で、ジフンが数百人のゾンビたちによる叫び声を聞けたように。世の中は0あるいは1の間を埋める幾多の周波数と波動で満ちており、耳のいい誰かが必ずその波動を聞き分けるようになっているのだ。

家族を失い、ゾンビの集団を手に入れたジフン。彼にとって残りの日々はどんな意味を持つのか。ジフンが出会ったソンビたちは、もしかしたら大切な人を失った人々の胸に残る喪失の傷であり、記憶の残余、その形象物かもしれない。彼らは「ゼロ」で取り替えることのできない、絶えず戻ってくる悪霊たちなのかもしれない。この小説は、ゾンビたちがあふれる空間に彼を呼び入れるための召喚状かもしれない。召喚状の中の名前は、債務から逃れられない。それは苦痛の散りばめられた人生ではないのか。そうとは限らない。ジフンは巨大な墓地で何かを学んだ。それは、ジフン自らがショックを吸収する「生きたハグショック(Hug Shock)」になれるという点だ。ショックというのは「受け入れる側がその気になれば、なんてことないものになる」ということがわかったのだ。「ショックを受け入れる」(156頁)新しい姿勢を考え出したのだ。それはゾンビたちがやってくるのを恐れたり、避けるとういうことではなく、別の姿勢でもって彼らを歓待できるということだ。そうやって「ゾンビたち」と一緒に生きていけるということである。

金重赫は、小説のあちこちで舞台上に呼び寄せた数々の記憶や事情、人々に向けて温かい視線を送ってもいる。「自分の意志とは関係なく、再びこの世界に呼び出されて、ああして生きているということ、いや、ああして暮らしてるということが哀れだった」(334頁)そして主人公は「誰かはすでに死に、誰かはこれから死ぬのだろうが、誰かはいつまでも生き残って奇跡みたいに通りを歩いていかねばならないだろう」と語る。それは美しい碑銘ではなく、生きた悲鳴を聞きながらゾンビと共に生きていくという小説家の自己宣言ではないだろうか。ここでいう小説家とは、墓前で悲しんだり、墓石にすがって哀悼する者ではない。彼は一箇所に留まらないよう絶えず召還される者であり、音のするほうにばかり動いてしまう者である。

金重赫にとっての「地図」と「音楽」は、彼が提議しようとする文学と類比されることも多い。地図が常識化された指標を超えるための媒介物だとするなら(『ペンギンニュース』2006)、音楽は曖昧な感覚をありのままのものとして受け入れるようにしてくれる触媒剤だ。(『楽器たちの図書館』、2008)。金重赫が考案した触る地図が見えないものを呼び寄せたとしたら、拍子っぱずれの協奏は聞こえないはずの世界を見せてくれた。2010年に登場した「ゾンビ」は、不在として存在する文学の領域を可視化する。それは現実空間の中に存在するが、周波数で感知することのできない想像力の地帯であり、無限なる主観と予期しない混沌とが入り混じった成長の空間である。そこではただ一つの現実が存在するのではなく、実在可能な存在たちが共存していることがわかる。これによって、金重赫の文学論三部作が完成したと言える。

 

■ 『1F/B1』

 

金重赫の三冊目となる短編集『1F/B1』は、タイトルからも分かるように記号が核心的な要素として機能する。作家が注目した対象とは、ずばり都市だ。その都市が必ずしも韓国に実在する都市である必要はない。ロンドンや東京の見慣れない地である可能性もあれば、数千万枚のガラスから成る仮想の都市かもしれない。前作と比べると、今回の短編集にはジャンル小説的な想像力が金重赫スタイルでもって加味されている点が目を引く。建物の外観を飾る数千万枚のガラスが一瞬にして墜落する災難の都市(「ガラスの都市」)で、私たちは不安に怯える。一方、路地と路地はつながっていて、新しい道を見つけ出せるに違いないと信じ、都市の中の隠れた迷路を探し出す都市の探検紀((「C1+y=:[8]:」)に、私たちはわくわくしたりもする。

表題作の「1F/1B」 では、建物管理者たちの隠れた暗闘にまつわる物語が描かれる。突然停電が起きるや、コピョン市ネオタウンの建物管理者連合を組織したク・ヒョンソンと彼を支援するチームリーダーのイ・ムンジョ、ホームセーフビルの新参管理者ユン・ジョンウが秘密の通路を使って秘密管理室に集まる。そこに突然現れた覆面強盗たちと暗黒の中での戦いが巻き起こる。地上1階と地下1階の境界、スラッシュ(/)で秘密通路がつながっているという設定は、彼らが固定かつ安定した場所に定着した人々ではなく「間」に挟まった存在だという事実を暗示している。

町内のごろつきたちを一発で締め上げたという伝説の中学生ハマカを主人公にした「川辺に出て来い」、別れた恋人が正体不明の怪植物と戦う「バジル」、壮絶な運命に定められたものたちの最後の瞬間を描く「3つの食卓、3つの煙草」、魔術と幻覚の境界を描いた「クラシャ」など、全7編の短編が収録されている。

 金重赫の設計した記号から成り立つ都市は、隙間を抱いている。一階と地下一階の間、消えた路地と空き地の間、生と死の間、幻影と実在の間、分裂の狭間を改めて見つめさせてくれる。人間は老いてゆくが、都市は古びない。変わることのなさそうな都市の隙間に重なるようにして積みかさなる物語を想像してみると、私たちの目の前に新たな都市が広がることだろう。7つの方法で設計されたこの新生都市は、消え去った物語を抱いているという点ではアーカイブでもあり、人々の間のつながりや絆を確認できるという点では、居心地のいい空き地ともいえるだろう。

 

4. 作家と批評家のことば

 

どんな数字が出たってかまわない。どこへ行こうと関係ない。サイコロは公平なんだから。1の裏には6があって、2の裏には5がある、3の裏には4があるんだから。今度は僕が投げる番だ。       

-金重赫

 

この短編集は僕から皆さんに贈る録音テープです。テープには全部で8曲の歌が録音されています。どれも僕にとって特別な歌です。ずいぶん前に友人の誕生日プレゼント用に作った録音テープのことを思い出します。自分だけの特別な歌を集めて作った録音テープのことも思い出します。LPやCDを再生させてからカセットテープの赤い録音ボタンを押すと「一瞬」にして音を移動させることができました。僕はあの時、音を捕まえたと思ったんです。

 今はよくわかりません。音というのは、そして音楽というのはどこで作られて、どこへ消えていくのでしょうか? 消え去った音はみなどこかへ行くのでしょうか? この録音テープの中には、僕がこの2年間さまざまな場所で捕まえておいた音を集めました。そして、ここには僕の趣向と思いと選択が詰まっています。それじゃあ、皆さんのカセットデッキにある緑色の再生ボタンを押して、僕が録音した音を聴いてみてください。                   

-金重赫

 

これはゾンビたちの物語ではない。忘れていた記憶についての物語だ。記憶していたい人たちについての物語だ。長い間ゾンビたちを抱きかかえていた。もう皆を世界に放とうと思う。おそらく、ゾンビたちは永遠に死なないはずだ。

-金重赫

 

僕は俗っぽいこの都市が好きだ。ここで生きていくことだろう。-金重赫

 

手のほどこしようがないほど柔な自意識の沼にはまってじたばたもがいているこの国の文学界で、作家金重赫がここまで健闘していることは一つの祝福だ。

-キム・ユンシク(文学評論家)

 

「拍子っぱずれ」として人生を生きる人物を設定したこと自体が、卓越したアイデアであり、ややもすると見捨ててしまうかもしれない人々の人生を温かいまなざしで包み込んでいる。制度や法律の枠からはみ出た人たちを異邦人にしてしまう現実世界で、作家が合唱で拍子を合わせられない人に焦点を合わせ、それを音楽の演奏と結びつけたのは、作家の斬新な感受性による輝かしい勝利としか言えない。

-キム・チス(文学批評家)

 

 「何かのために」存在する道具は、その道具性を失った後になって初めて本来の姿を現す。故障したタイプライターは有用な道具としての実用性を捨ててこそ、49個の歯をもった「灰色怪物」として生まれ変わる(「灰色怪物」)。タイプライターだけではない。ペダルもサドルもない自転車(「バナナ株式会社」)や、触覚と想像力だけで読む木の地図(「エスキモー、ここが終わりだ」)もしかりだ。これらはみな本来の用途とは全く異なる、現在の慣習的システムの中ではまともに作動しない、そのせいで製品を使う人が不便さや違和感を感じることでのみ無用ではあるが意味のあるモノになる。そうしたモノはわかりやすい製品や商品とは異なり、果たしてそれは何なのかという問いを投げかけさせるような、分かりにくくて見慣れないモノであり、商品の世界をかく乱し反省させる何かなのだ。金重赫の小説に登場する「無用のモノ」を文学のアレゴリーと言えるのはこのためである。

-シム・ジンギョン(文学批評家)

 

 サウンドにも温もりがあるとしたら、金重赫の小説には生ぬるい温もりのようなものがあるというべきかも知れない。この温もりはどこからくるのだろう。ひとまずこう言ってみることにしよう。金重赫の創る人物たちはほとんどが「平和主義者」であるということ。彼の創る人物たちは小心者だ。反対に「大心」な者は自分の主張を大きな声で叫び、他人の趣向を自分のものに合わせようとする。ところが、金重赫の人物たちは素朴な夢をみて、その夢を叶えるために一歩ずつ前に進んでゆく。彼の本がアルバムだとするなら、彼の人物たちはアルバムを聴いている人たちのようだ。大事にしている音楽を聴きながら、あぁ幸せだなと、そっと一筋の涙を流すような人たち。こうした人物たちはなぜ温かく感じられるのだろうか。生きることに満足する方法を知っている人々、私たちを脅かさない人々だからだ。彼の小説は他人の趣向を尊重することができる人々が集まって暮らす集合住宅のようだ。

-シン・ヒョンチョル(文学批評家)

 

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